早いもので、台湾の自宅で日本の仕事をする、という生活ももう2年になる。それ以前は台湾のスタートアップ系の企業を転々としていたが、就学前の娘たちの面倒を妻に任せてしまうと負担が大きすぎること、また40代を迎える前に日本との繋がりを強化しておきたいと思ったことなどが動機となって今の生活へと至っているのだが、先日下の娘も幼稚園に通い始めたことで日中は平穏に過ごすことができるようになり、嵐のような日々もひとまず一段落という感覚である。
自宅は透天厝と呼ばれるいわゆる一軒家で、家の中に階段があるタイプだ。うちの場合は3階建てで、屋上には頂樓加蓋と呼ばれる増築部分があって実質4階建てになっている。多くの場合この手の増築は違法なのだが、古くからあるものについては事実上黙認されているため、台湾全土で同じような構造の建築物を目にすることができる。4階部分は劣化が激しいのでまったく整理しておらず現在は倉庫として利用しているのだが、たまに足を踏み入れると妻はその雑然とした様子を懐かしみ、慈しむような表情を見せる。妻はぼくと一緒に暮らす前に、ここに住んだことがあるからだ。この家は妻の祖父が建てたもので、かつてここには祖父とその子供たちが住んでいた。祖父の息子の一人であった義父が義母と結婚した際、この家を増築して住むことにしたのだそうだが、それがこの家の4階で、妻はここで生まれ育ったのである。
家の前には小さい廟がある。その建立には祖父が関わっていたそうで、廟の柱の一本には大きく祖父の名前が刻まれている。ぼくたちが結婚した時には祖父はもう他界していたが、日本語を話し、日本のことを愛していたという祖父は、孫娘が日本人と結婚したと知ったらさぞ喜んだだろう、と親族の誰もがそう懐かしそうに話していた。妻は小さい頃廟の敷地で遊ぶのが好きだったそうで、夕方食事の時間になって義母が窓から呼ぶ声が聞こえるまで、ずっと外で走り回っているような活発な子供だったという。当時は他にも叔母や叔父の家族も暮らしていたため従兄弟とも兄弟同然に育っており、それは現在の妻と従兄弟たちとの関係を見ても伺い知ることができる。しかしやがて子供たちが成長するに連れて家は手狭になり、妻の家族をはじめ、皆より良い生活環境を求めて他の場所へと移り住んで行った。妻がこの家を離れたのは高校生の時だったという。最後は祖父と祖母がここで静かに余生を過ごし、二人が他界したことでこの家は役目を終えた。
そんな家にどうしてぼくたちが住むことになったのかというと、ぼくと妻が結婚した時、妻は実家暮らし、ぼくが住んでいたのはワンルームの部屋だったので、新居を探す必要があったことに端を発する。当時妻は既に妊娠しており、子育てに必要な広さの部屋を探していたのだが、中々良い条件の部屋が見つからず、日本への帰国も考慮していた。そんな折のこと、妻の叔母たちが今はもう誰も住んでいない持ち家がある、ボロボロでひどい状態だけれどもそんなところでもよければ自由にしていい、と申し出てくれたのがこの家だったというわけだ。下見に来てみると、確かにとても人が住めるような状態ではなく、完全に廃墟と言う表現がふさわしい様相で、天井は剥がれ落ち、壁には穴が空いていたし、床にはゴキブリの死体がいたるところに転がっていた。トイレと一体化したバスルームは小さく、そこでシャワーを浴びることなど全く想像できなかった。特に恐ろしかったのが1階で、建物に挟まれた1階は光も届かず昼間でも薄暗く、凄まじい湿気とカビの匂いが充満していたが、一方で2階から上は一面の壁が窓になっていて、採光も悪くなく、住居としてのポテンシャルはあるような気がした。相当悩んだが、部屋が明るいこと、便利な場所にあること、持ち家ならば改装にある程度お金を使っても無駄にはなるまいと考えたこと、また妻が育った場所で娘も育つということにある種のロマンを感じたことなどが決め手となり、元々予算として考えていた家賃の4年分を使ってリノベーションすることを決めた。内部の全てを壊して作り変えるスケルトン・リフォームだ。妻と、妻の家族にとって特別な場所であるこの家は、こうしてもう一度命を吹き込まれることになったのだった。
とは言えリノベーションの過程は楽ではなく、予算が限られていたため、まずは劣化の激しい4階と、既に夜市の屋台置き場として貸している1階の修繕は早々に諦めた。だからぼくたちは今、2階と3階を住居として利用している。また設計事務所にデザインを依頼するのも厳しかったため、図面は全て自分たちで書くことにした。台湾の多くの設計事務所はデザインから施工までを一貫で請け負う形を取っているので、デザインは自分たちでやるというぼくたちのやり方をサポートしてくれるスタジオを探すのも難航を極めたのだが、とある台湾の清水模(打放しコンクリート)建築で有名な大学教授にぼくたちの図面が目に留まり、面白いから手伝いましょうと、施工費の他、格安の手数料で彼のスタジオを通した施工手配・現場監督を引き受けてもらえることになったのである。今から思えば、たまたまちょうど良い場所に良い建物があり、たまたま親族の好意に与ることができ、たまたま良い縁がありアイデアを実現できたお陰でここに定住することができたということを考えれば、ぼくたちはつくづく運が良かったのだろう。
ともかくそんな成り行きで、ぼくは今すっかり様変わりした2階の窓際でこの文章を書いている。この場所は外の音がよく聞こえるのだが、娘たちもそれを知っていて、廟で遊んでいる時に仕事中のぼくを大声で呼んでくることがある。窓を開けて答えれば、特に用もないはずの娘たちは、家に入ればすぐ見られるはずのぼくの顔を見て、さもそれが特別なものであるかのように喜んで手を振る。中の様子はすっかり変わってしまったが、かつて夕食の準備ができたことを知らせるために義母が顔を出していたのもまた同じこの窓であり、外で子供たちが手を振る光景や、あるいは子供たちが下から見上げているものは、当時とさほど変わっていないようにも思える。
そんなことを意識してだろうか、この家に住むようになって、窓から外を眺める機会が増えた。階下を覗こうと窓を開ける時にふと思い出すのが、『ドラえもん』の「あの窓にさようなら」という話だ。物語中、ドラえもんとのび太は窓に映る景色を他の家のものと交換することができるという道具を使い、どこかの田舎の家の窓の景色を見て遊んでいるのだが、そこに一人の青年が物憂げな顔で近づいてきて独白を始めるのを目撃する。故郷を離れることになった青年は、長年想いを寄せたその家の主に最後の別れを告げに来たものの、留守で会うことが叶わず、静かにその想いを窓に語り、背を向けて去っていくのである。この話で印象的なのは、窓が内と外、つまり自分と他者を繋ぐものであると同時に、内と外の間に立ちはだかりその接触を阻害する壁として描写されていることだ。窓はそれ自身を通して外からは中を、中からは外を見ることはできるのだから、壁というよりスクリーンと言った方が良いかもしれない。ドアが「外」との接点だとするならば、窓は「外」を映し出すスクリーンなのだろう。とりわけぼくが覗き込むこの窓は、長い年月、休まず上映を続けてきた老舗の映画館の銀幕さながらに違いない。窓は全てを知っているのだ。
30年前も確かにあったこのスクリーンに、強烈な西日が描き出すハイコントラストな映像の中では、過去と現在はもはや溶け合って区別がつかない。この家の窓には、雲ひとつない真夏の日の黄昏前にだけ、目を開けていられないほど眩く輝くタンジェリン・イエローの潮が満ちる。その地平で響く子供たちの遊び声の中からは、遥か昔、まだぼくの知らない妻のはしゃぐ声が聞こえる気がするのである。
