二十年後、知らない物語の果てで

「つまりさ、レースなんだよ。一人ぼっちのね。」
「ふうん、じゃあ賞品は?レースなら賞品があるべきでしょう。」
「孤独、かな」
「何それ。一人だけで続けたレースの賞品が孤独だなんて、馬鹿にしてる。」
「おいおい、孤独ってのは陥るものじゃないよ。辿り着くものさ。」
「ふうん、私にはまだ分からないわ。」

Internet Archiveというサービスがある。いわゆる「魚拓」と呼ばれるもので、インターネット黎明期から現在に至るまで、ロボットが収集した過去に存在したWebページのキャッシュをアーカイブ化して保存しているものだ。ぼくとインターネットの出会いは割と早く、中学生の頃、親に初めて買ってもらったIBMのデスクトップパソコンがきっかけだった。パソコンがまだ特別なものだった時代に、一般庶民の家庭だった我が家でそれが実現したのは、当時の友人の影響が大きい。「パソコン研究会」なるクラブの一員だった彼の手ほどきを受け、Windows95が発売すれば秋葉原のソフマップで並んで購入したし、インターネットというものが面白いとなれば、ピーピーガーガーとうるさい通信モデムを購入して、親に頼み込んでプロバイダ契約をしてもらった。90年代とはハナタレの中学生がOSを買うために並んだり、親にインターネットの必要性を説いて啓蒙するような時代だったのである。ぼくはWebエンジニアとして生計を立てているのだが、その原点も、かの友人の「ホームページはWindowsのメモ帳で作れる」という一言にまで遡ることができる。この異国の地でぼくの生活を繋いでいるのは、ひとつには、彼との出会いという偶然によってだった。

そんな経緯でインターネットの世界へと足を踏み出したぼくは、それから数年もすると、写真素材サイトのようなものを運営するようになった。プロによるストックフォトのサービスが充実している現在では考えられないかもしれないが、当時はそういうものがなかったので、素人丸出しの写真でも需要はあったのだ。ぼくはそのYahoo! JAPAN(当時は申請認可式だった)にも登録されたサイトで、配布用の写真素材とは別に、短い文章と写真を組み合わせたコンテンツを作っていた。冒頭の文章がその一部だ。それはInternet Archive内に「魚拓」として残っていた、当時19歳だったぼくの思考の断片である。

思い返すと、孤独について考えることの多い人生だった。孤独と言っても色々とあるだろう。妻の中学時代の親友などは、子供の頃両親が離婚してから男手ひとつで育てられたが、社会に出た後は父親とももうほとんど連絡を取らなくなったそうだ。結婚もしていない。頼れる親戚もおらず、命をつなぐことを最優先事項とし、一人で地道に生きている彼女は紛れもなく孤独である。それも自由を侵食し生命すら脅かす可能性のある深刻な孤独だ。事情を知る妻は彼女を元気付けようと時折家に招くのだが、最近はその手の話に滅法弱いぼくの方が感情移入してしまい、涙ぐみながら「あなたはもう家族だから」などと、よく妻の親戚に言われていたような言葉を投げかけている始末である。

ともかく、彼女の孤独に比べたら子供騙しのようなものだが、ぼく自身もそれなりに孤独だったのだ。まあ聞いて欲しい。記憶のある限りで最も昔の小学生時代は優等生すぎて(自分で言うのもアレだが)軽くイジめられていたし、中高時代は進学校の男子校特有のマッチョな雰囲気に馴染めず、ついには競争を降りて音楽の道なんぞに迷い込んでしまった。苦労して入信した音楽の世界では、「我々芸術家は、優れた芸術を以って大衆を啓蒙しなくてはならない」と素朴に信じる人々の多さにうんざりし、「芸術音楽はすでに保護された芸術という安住の地に胡座をかいている、その前提を疑うべきだ」などと言い出したものの、奇人扱いされまたも居場所を失った。仮にも日本では芸術教育の最高峰とされている東京芸術大学にまで至っても、ぼくの在籍中にそのような問題提起に興味がある学生は皆無であったし、また少なくとも当時はそういった議論を深められるような場も存在しないことに失望したぼくは、「もう音楽なんか知るか!俺はホームページ作れるんだ!それで生きていけばいい!」と半ばヤケクソになって台湾にやってきたわけだ。結果的にそのヤケクソがきっかけで徐々に好転していくことになるのだが、ぼくのような捻くれ者の半生は一事が万事この調子で、プチ孤独のオンパレードである。しかし子供騙しのプチ孤独であっても、積み重なるとそれなりの重さになるのだ。ぼくが集団に対する帰属意識が薄いのもこういう事情と関係があるに違いない。ぼくはどこにいて何をしていようが「またいずれそうなる」という確信を抱えて生きている。

最近Twitterで、ぼくと同じように台湾で子育てをしている日本人のフォロワーの方が「成長を喜ぶ気持ちと、日本の教育を受けさせられないことを残念に感じる気持ちが混在している」という話をしているのを見て、その通りだと思った。ここで言う「教育」とは四則演算や英語教育といった話ではないだろう。もっと人として根源的な、やがて子供が自らを何者であるかと考えた時に、最後に拠り所とするはずの原体験のようなものだ。それはある共同体で誰もが知っている物語だったり、歌だったり、仕草だったりして、様々な形で子供の中に浸透し根を張るものだ。娘がどこかで覚えてきて歌う歌を、ぼくはほとんど知らない。もう少し言うなら、「知る」ことはできる。楽譜なり動画なりを見ればそういうものが存在することはわかるし、再現もできる。しかしそれは永遠に彼女や彼女と原体験を共有する人々の中の「それ」に届くことはない。ぼくにはそれが孤独であると感じられるのである。愛する妻や娘たちとの間に横たわる、原理的に埋められないその孤独をどうやって乗り越えるのか、というのがここ一年くらいのぼくの大きなテーマだった。

そんなことを考えていたせいで、実はこのような文章を書くのも一年ぶりになる。拙文を楽しみにしてくださっていた読者の方々には面目ないという気持ちで一杯であるが、何をしていたかというと、この一年は映像制作のことばかり考えていて、ようやく形になってYouTubeチャンネルを立ち上げたのが数ヶ月前の話だ。ご覧いただいた方には福徳円満な生活を発信するもののように見えているかもしれないが、意図としてはそういうものを見せようというモチベーションで生み出されたものではない。台湾人の妻と、ゆっくりと「台湾人」になっていく娘たちという家族の中で、自分をどう位置付けてゆけば良いのかという問いに対する答えを、家族を見つめる眼差しの先に見出したかったのだ。だからぼくのチャンネルは、二十年前から問い続けてきた孤独についての、ぼく自身に宛てた一つの回答でもある。

二十年前のぼくよ、どうか見て欲しい。ぼくが辿り着いたのは、空だった。そう、ぼくは光を浴びせ、時に雨を降らせる空。そして彼女たちはその下で咲く花なのだ。ぼくは花に水をやるためにここにやってきた。大地から切り離された紺碧の場所、無限の自由と静謐な孤独が交差するその地点で、ただ花を育てて咲かせて、いずれは消えていく。そんな人生もきっとまた悪くないだろう。