後ろ向きの縁

今はエンジニアとして生計を立てているが、ぼくは20代の頃音楽にその全てを捧げていた。ぼくの高校はそれなりに有名な進学校だったので、音楽大学に入りたいと言い始めた時には周囲がざわついたのを覚えている。両親はさぞ頭を抱えたことだろう。そうして入学した大学は学生数自体も一般大学に比べてはるかに少なく、学科でも同期生となるのはわずか23人だった。そのせいでどの授業に出席してもほぼ同じメンバーだったり、文化祭の催しなども学科単位でやる習わしがあったりと、必然的にある程度密なコミュニケーションをとる必要があったので、訳あって学部に入学した時すでに26歳だったぼくにとって、浮いてしまうのではないかと神経を使う毎日だった(おそらく他の子たちにとっては、面倒くさいおじさんだと思われていたと思う)。

音楽大学と一口に言うが、何の形容詞もつかない「音楽」という言葉をみて、雅楽や京劇やガムランをイメージする人はよほど特殊だろう。多くの人はポップス、ロック、ジャズ、クラシックなど、つまり西洋音楽とカテゴライズされる音楽を思い浮かべるはずだ。ぼくもその例に漏れず、クラシックの作曲や音楽理論を学ぶ西洋音楽の徒弟としてこの世界に足を踏み入れたわけだから、大学でも当然西洋音楽を学ぶだろうし、卒業したら何かしらそれに関わる仕事に就くのだろうと思っていた。ところがそんなぼくの人生は、23人の同期の中の一人によって大きく動かされることになる。

彼は根っからの研究者気質で、研究こそが人生で最も優先されるべき尊い営みだと考えている人間だった。さらに「芸術は素晴らしい」ということを前提として、それを理解できない大衆を引き上げたいという選民思想のようなものを隠そうともしないタイプで、ぼくとはことごとく反りが合わなかった。2年生の終わり頃、彼とほぼ強制的に毎日コミュニケーションを取ることで溜め込んだストレスが原因で発熱と不眠に悩まされるようになった。検査の結果心因性の自律神経失調障害だろうということで、医者からはストレスの原因を遠ざけることを勧められた。幸いぼくの大学では主流ではないものの、東洋音楽を学ぶコースも用意されており、彼は西洋音楽の盲信者だったので、ぼくはそこで方向転換することになったのだった。西洋音楽やドイツ語を学ぶのをやめ、東洋音楽や中国語を学ぶようにすれば、卒業するまで彼と顔を合わせずに済むのではないかと考えた訳だ。これがとても後ろ向きな、ぼくと中国語の出会いだ。

中国語の講座は隔年開講だということからも分かるように音楽系の大学では全く不人気で、ぼくが受講した年も3人しか生徒がおらず、そのうち2人は途中から来なくなったので実質マンツーマンレッスンだった。正直にいうと当初はそれほど真面目に取り組むつもりもなかったのだが、マンツーマンとなれば真剣にやらざるを得ない。そうこうしているうちに先生とも仲良くなり、年度が終わってみれば、たった1年学んだだけの中国語が3年間やっていたドイツ語よりも出来るようになっていた。学ぶのが楽しくなって留学を考え始めたのはこの頃で、卒業してからの当ても何もなかったぼくは、台湾に住んでいたことがあるという先生の後押しもあり、「もう少しやってみよう」と台湾への語学留学を決意したのだった。2011年、震災が起きた年の春のことだった。「どうして台湾に来たのか」とよく尋ねられるのだが、こんな経緯だから、ぼくはいつもうまく答えることができない。それは「なんとなく」なのだ。流れに逆らわず偶然を受け入れ、状況の変化に自分を適応させることを考えていたら、いつのまにか台湾にいた、ただそれだけなのだ。

ぼくが何かをしたいと思う気持ちは、ぼくの内側から自然と湧き出る個人的なものではなく、いつも誰か他人との出会いを媒介として生まれる社会性の産物で、ぼくはそれによって思考し身体を動かし、その結果がまた新たな人との出会いのきっかけとなってきた。そうやって流されて生きてきたぼくは、おそらくこれからも同じように生きていくのだろう。このことに気付いてから、ぼくは未来のことをモヤモヤと考えるのがばからしくなった。今後どんな人と出会ってその結果何を考えるかなんて、今のぼくの知るところではないからだ。

人の出会いは、その出会いを素直に感謝できるような美しいものばかりではない。でもそれが恩師と崇め感謝する人との出会いだろうと、顔も見たくない唾棄すべき存在との出会いだろうと、何かしらの形で人生の一部分を重ね合わせ、その結果思考の中に何かが宿ったという点では同じだ。だからある人との出会いが良かったとか悪かったとかを、人生の途中でどうこう言うことはできない。悔しいけれど、例の同期のおかげでぼくは妻と出会い、娘が生まれたとも言えるわけなのだから。まあ、とは言っても、ぼくがやはり彼を嫌いなことには変わりはないし、それはそれで良いのだと思う。