世の中には不思議なことがたくさんある。オバケなんていないと思っていても、人間に想像力がある限り、その不思議な世界を完全に拒否することは難しい。21世期の現代においても、未だ「偶然」に何らかの意味を見出して解釈することで成立している価値が散見されることがその証左だろう。先日、深夜1時過ぎのことだ。ぼくと妻が寝支度をしていると、ふいにインターホンが鳴った。我が家のインターホンは押されると「サンタが街にやってくる」がワンコーラス流れるのだが、静まりかえった深夜、暗がりの部屋に響くにはいささか場違いなメロディーである。妻と顔を見合わせ、こんな時間に?と恐る恐る下に降りてみるが、誰の人影もない。機械が無線式のものだから、きっとなにかの電波を拾って誤動作したのだろう、電池を替えないとね、などと言いながら床に着いた。妻の叔母がこの世を去ったのは、その次の朝のことだった。まだ63歳だった。
叔母の話を書くのはこれがはじめてではない。叔母は妻にとっては第二の母親のような存在だった。決して裕福ではない家庭の末子として生を受けた妻に、出来る限りの援助を施して教育を与え、日本留学の資金も準備してくれた叔母のことを、妻はとても慕っていた。だから、知らせを受けた妻はその場で泣き崩れた。叔母はぼくに対しても好意的だった。妻が入院中の叔母を見舞い、子供の話をするたび、「あんた、いい男と結婚したね」と嬉しそうにしていたという。ぼくは少ない時間ではあったが、人生の一部を叔母のそれと重ね合わせた。叔母が最期まで望んでいたのが妻の幸せだっただろうことは想像に難くない。ぼくが現れて、そしてぼくと生きる妻の姿を見たことで、妻の将来への憂いという最大の心配事を少しでも和らげることができたのだとしたらよいのだが。
どこにでもいる「普通の人」だった叔母のようなひとたちの人生は、多くの場合、誰にも語られることなく、誰の目にも止まらず、歴史という大河に流されていく。だが人生とは、ある生命が決して平等ではない生を受け入れ、決して自由ではない選択の中から、それでも必死に最善を選び取ろうとする意志の結晶であり、それは偉人のものでも、普通の人のものでも変わらない。妻への愛という点においてぼくと叔母は接続していて、もしかすると、あの日のインターホンは、叔母がぼくに「あとはあんたに任せたよ」と言いに来たのかもしれない。だからぼくはここで、日本語で本人は読めないことを承知で、叔母の送った普通の人生を、少しばかり語りたいと思うのである。
叔母は三姉妹の次女で、名前を「燕」といった。秋を愛したという祖父の思いを表すように、叔母の姉妹の名前にはみな「秋」の字が使われていて、叔母も生まれた時は「秋燕」と名付けられたが、「秋になると燕は帰っちまう、寂しい名前だ」という祖父の気変わりによって改名することになり、「秋」の字を削除したものが戸籍名になったのだそうだ。ぼくたちが今住んでいる建物も、以前は妻一家と叔母たち三姉妹がぎゅうぎゅう詰めになりながら住んでいたものだ。叔母の姉妹は結婚してこの家を離れたが、叔母は独身で、その後妻一家が引っ越す時までずっと一緒に住んでおり、一人だけ歳の離れた姪っ子であった妻を特に可愛がった。また叔母は当時から妻の一家の家庭状況を目の当たりにしていて、ただでさえ経済的に困窮している家庭で「多的(あまりもの)」として生を受けた妻のことを早くから心配し、ある時は妻の両親に、養子として引き取りたいという話をしたこともあったという。無論義母は自分の子は自分で育てると言って断ったのだが、それでも叔母から妻へ注がれる視線は親としてのそれであり、それは最後まで変わることはなかった。
そうして実母と「第二の母親」に育てられた妻は、やがて日本語を学ぶ道を選び、日本に留学することになる。それは、妻に早々に社会に出てほしいと願っていた両親に対して、勉強を続けさせろ、金は私が出す、と主張し続けた叔母の執念が実った瞬間だった。彼女がそれほどまでに教育に熱心だったのには理由があった。叔母は地政事務所(日本の区役所)を定年まで勤め上げた公務員で、勤続30年にのぼる大ベテランだった。現場では一番仕事をわかっていて、周りからも大事にされていた彼女は、その気が遠くなるような長いキャリアの時間を、なんとパートタイマーとして過ごしたのである。仕事内容は正規職員と変わらないが、待遇は勿論違う。正規職員になるには公務員試験に合格する必要があるのは日本と同じだが、叔母はそもそも学歴が足りず、受験資格を持っていなかった。受ける権利がない、仮に受けられたとしても学がないから受かりっこない、そんな絶望が教育への執着を強くしたが、叔母はそれを自分の人生ではなく、次の世代に向けることを選んだのだった。教育がないと自由にはなれないことを、叔母は身をもって知っていた。ところが、妻がその話を知ったのはつい最近、叔母が病院で寝たきりになってからの話である。安定した公務員という職業であり、普段からロレックスの時計などを身につけていて、なにかと入り用のときにはすぐ助けてくれた叔母のことを、妻はずっと裕福なのだと思い込んでいた。だから、亡くなる前のある日、叔母からその話を聞いた妻は涙が止まらなかったという。その日、愛用のロレックスを託すため妻を呼び出した、留学費用として150万元を工面した叔母の月給は、僅か26000元(約9万円)だった。
ほかにも、らしいなというエピソードがある。ある日、スクーターに跨ったまま立ち話をしていた叔母は、若い女性二人が乗ったスクーターに追突された。スクーターは転倒してミラーが割れたものの、幸い人の方には何事もなかったそうだ。怒りの形相で相手の顔を見ると、運転していた女性が泣いている。「あんた、何であんたの方が泣いてんのよ、ぶつかられたのはこっちよ?」叔母が聞くと、後ろに乗っていたもう一人の娘が「おばさん、ごめんなさい。この子、今フラれたばっかりなの」と答える。叔母は目を丸くして「そんなことで泣いてんじゃないわよ、世の中にはもっといい男がいっぱいいるわよ」と言うと、スクーターのことなどすっかり忘れて、そのまま目の前にあった喫茶店に連れていき、小一時間、見知らぬ少女の失恋話を聞いて帰ってきたのだそうだ。もちろんスクーターは自腹で修理することになった。
近年わが国で「一億総活躍社会」なることばが登場したように、現代社会はより一層ぼくたちに「活躍」することを要請してくる。それは個人が生産性を意識したりスキルを身に着けたりすることで自らの社会的な価値を高め、液状化した社会を独力で渡り切り、社会や共同体に頼ることなく自己実現することを求められる社会である。そのような社会の変化を通して、ひとは愛というリソースを、自分と自分の家族を守るためだけに、そのすべてを費やさないと生きていくのは難しくなった。個人化が進む社会では、もはや愛はシェルターから漏れ出すことはない。愛は、自分と自分の子供だけを格納した狭いシェルターの中でのみ惜しみなく循環するものになってしまった。
叔母は果たして「活躍」できたのだろうか。目に見える形で社会貢献し、それを通じて自己実現するということが活躍の意味するところだとすれば、叔母の人生は、残念ながらそうではなかったと総括されてしまうのだろう。しかしその分彼女は、シェルターの外から妻に最大限の愛を注いだ。その結果、妻の人生に、延いては妻が生きるこの社会に、小さな意外性をもたらしたとは言えないだろうか。妻の人生も、叔母がいなければ満足な教育を受けられず、「予想通りのもの」になっていたかもしれない。叔母が介入することでそこにわずかなズレが生じ、未知の可能性が芽吹いたのである。固着して柔軟性を失ってしまった社会の「凝り」を解きほぐすのは、叔母がそうしたように、シェルターの外に愛を循環させるような役割を全うしようとする生の営みによるのではないだろうか。それは活躍することもなく、ましてや歴史に記されることもないありふれた普通の生であるが、偉大な尊い生である。ぼくたち、すなわち「活躍」を目指すことのできるひとびとは、気が付かないところでそういうものに支えられているということを忘れるべきではない。とりわけ、そのズレの間に生きるぼくと、そこに生まれたぼくの娘たちは、そのことを忘れるわけにはいかないのだ。
晩秋の朝、碧落一洗の空の下、役目を終えた燕は帰るべき場所へと飛び立った。あるいはそれは、一時的に住む世界が変わるだけのことなのかもしれないが、ともあれ、妻を見守り、長年飛び続けた燕に、歌人・馬場あき子の歌を手向けとして捧げる。願わくは、その旅の果てに永遠の安らぎがあることを祈って。
つばくらめ空飛びわれは水泳ぐ一つ夕焼けの色に染りて
