子供というのは不思議なもので、平日の朝は起こされても起きないくせに、休みの日となると驚くほど早起きをする。だから週末にこそ少しでも寝ていたいと思う我々大人を起こすのは、我が家ではもっぱら娘たちの仕事となっている。台湾には朝食店というスタイルの店が至る所にあって、サンドイッチやトーストなどの軽食をメインに提供しており、大体昼ごろになると店じまいする。台湾では朝食というとこれを買って済ませるというのがよく見られる光景で、日本人が想像する朝の食卓とは幾分違って見える。台湾の小学生の朝は早く、こういった買い置きの食べ物を慌ただしく掻き込んでバタバタと出かけていくのだが、毎朝手作りの朝食を準備してくれていた母親の元で育ったぼくにはそれが申し訳なく感じられることがあり、週末くらいはなるべく朝食を作ってあげようと決めている。娘たちのリクエストは簡単で、ホットケーキだ。長女と次女は食べ物の好みがあまり合わず、食事担当としてはなかなか苦労させられるのだが、ホットケーキは別物である。甘いものを大っぴらに食事として食べられるものは、子供にとっても特別なのかもしれない。ともかくそんないきさつで、黙々とホットケーキを焼くのがぼくの週末の朝のルーチンワークとなっている。
ぼくはデバイヤーというメーカーのクレープパンでホットケーキを焼いているのだが、この大きさが実に絶妙で、1枚焼くには大きすぎるが、2枚焼こうとすると少し狭い。また中心に向かって微妙に傾斜があって液体が中心に寄ってしまうので、複数枚焼こうとすると確実にくっついてしまうのだ。色々と試した結果、大人しく1枚ずつ焼くのがもっとも美しく焼けるという結論に達した。美しさはぼくにとって重要で、手間を犠牲にしてでも綺麗に焼きたいのである。ホットケーキを1枚美しく焼くのには3〜4分かかるから、娘たちの6枚が焼き上がるのは概ね20分後になる。その20分間、じっとホットケーキを見つめている。見つめていると色々なことを考える。ちょっと小さいな、とか、さっきより真円に近いな、とか。プツプツと泡が立ってきたら裏返すのだが、このタイミングが重要だ。ステーキを焼く時に一度しか裏返してはいけないという「常識」はまやかしだというのが分子ガストロノミーの見地から明らかにされつつあるが、ぼくはホットケーキは一発勝負だと思う。焼き過ぎはもとより、焼き足りない面を再度焼こうとしても、一度返した面はもはや鉄板に完全に密着せず、綺麗には仕上がらないのだ。
もちろん確実に成功させたいのであれば、インターネットでレシピはいくらでも見つかるし、その上で赤外線温度計などで鉄板の温度を、あるいはタイマーで焼く時間を測るなどすればよい。変数を減らせば均一な結果に近づくし、そうした方がホットケーキの生産は捗るだろう。でもぼくはそうしない。あくまで目で見た火の大きさ、手のひらを掲げたときの鉄板の温度、ジュッという音や焦げ始めた時の匂い、そこに至るまでの時間、そういうものを感じる身体的感覚にこだわる。そうして感覚と身体が接続しているのを感じている。ところがそれを拒否し、正確で確実な、しかし機械的なものを感覚の代替としたとき、接続は断絶され、ぼくの身体は、だれかの用意したレシピの通りに、つまりだれかの考えを忠実に遂行する道具として行使されるようになる。言い換えれば、確実性と引き換えに主体性を放棄することになる。ぼくという人間が変数の一部となれば、当然ホットケーキの生産は不確実なものになるが、だからこそぼくは考え、感覚を研ぎ澄まし、また時にはその感覚を疑う。機械的で確実な過程の中にはそれはない。ただ与えられた「正しい」手順と、予測可能な結果があるだけで、新たな発見や驚きはなく、真の喜びや絶望もない。かくしてホットケーキを焼くという人間的な行為は、成功という目的にたどり着くためだけの、非本質的で儀礼的なものへと歪められるのである。
資本主義社会の到来は旧い共同体の縁故に囚われた人々を自由にしたが、その過程で人々は企業という新たなルールによって再編成された共同体に所属するようになった。そこには「まじめに」、すなわち社会の部品として生きていれば、大きなもの、家族とか国とかいったものが自分を守ってくれるという信仰があったはずだが、現代はネオリベ的価値観や自己責任論に覆われた徹底した個人主義の時代であり、その神話はもはや力を持っていない。それにもかかわらず、社会はひとを部品の一部として取り扱うことをやめる兆しはない。むしろより優れた部品であることを要請しているように見えるし、それを内面化することが美徳とされ、さらにはそうあることが立派な「社会人」の条件だとすら見なされている。かつてはそのように資本に自由を捧げる対価として享受できる安全や安心があったのかもしれないが、今はそうではない。自由は最大限まで搾取され、その上で人々はなお不安に晒されている。
ホットケーキがうまく焼けないことを恐れる人のためにレシピがあるように、ネット上には個人主義の社会で生きることに不安がある人のための情報が溢れている。それは「けして失敗しないこと」「最短距離で目的へたどりつけること」「他者を出し抜いて得ができること」などを謳って生き方に言及するもので、即効性があり、時には第三者の利益につながったりもするような情報のことだ。ぼくはこれを「ライフハック的なもの」と呼んでいる。ライフハック的なものは、人生には正解があると素朴に信じる人たちへの特効薬であり、道標である。それに導かれるライフハック的な生の中では変数はほとんど固定されていて、感覚やランダム性が排除された結果、起こりうることは大方想定内の出来事となる。それは完全にスケジューリングされた添乗員付きのパッケージ旅行のような生であり、確実性の生である。そのような生を歩むとき、ひとは効率と引き換えに、不確実さとそこから派生するはずの未知の可能性、哲学者・東浩紀の言葉を借りれば「誤配」の機会を失っているのだ。
ライフハック的なものには常に目的が先行している。言い換えればなんらかの目的を達成するためのノウハウの形態がライフハック的なものである。目的はだれかの手によって自動的に与えられ、クリアするための条件も、その方法も、まとめて提供される。こうしたお手軽さが当たり前になった社会では、人は容易にそのカプセルの中に閉じ込められてしまう。少なくともカプセルの中にいる間は、パラメータが固定された確実性の生を生きることができるからだ。あるいはカプセルの外のこと、すなわち確実性とは無縁の、不安定で、その日その日を考えて生きていかなければいけないような荒涼とした大地のことを忘れられるからでもあるかもしれない。しかしぼくは、ひとがほんとうに考えなくてはいけないことは、この荒涼とした大地の方にあるような気がするのである。マトリックス的世界の外、身体と感覚が接続するその場所にあるものこそが、例えば他人の生について、成功か失敗か、正しいか間違いか、敵か味方か、そういった軸でのみ評価し合うような窮屈な平面世界からひとを解放し得るものなのではないかと思うのである。
さて、ぼくが言いたかったのは、ホットケーキを焼くことは人生と似ているということだったのだが、少し長くなってしまったようだ。クレープパンの上のホットケーキも焦げてしまった。こうなるともう食べられない。人生の時間が無限ではないように、ホットケーキもいつまでも鉄板の上に寝そべっているわけにはいかないのだ。ではどうするか?答えは簡単で、またはじめから焼けば良いのである。人生は長くないし、ひっくり返すのはやり直せないかもしれないが、一から焼くことはできるはずだ。なにも大した話ではない。ぼくたちは所詮人間なのだから。そう、ちょうどホットケーキがありふれた穀物の塊であるように。
