細い糸

日頃運動をする習慣がないぼくは、家でリモートワークをするようになってからさらに運動量が減ってしまい、これはまずいということで、一念発起しジムに通うことにした。ぼくは自分の意志の力というのをこれっぽっちも信用していないので、何らかの外的な圧力がないと続けられないだろうと思いトレーナーをつけることにした。トレーナーと毎週時間を合わせればすっぽかすことはしないだろうと思ったのだが、これが正解だった。ちょうど他人と話す機会にもなるし、何よりもスポーツマンというこれまでぼくの人生と全く無縁だった人種と仲良くなるのが新鮮で興味深い出来事となったのだ。おかげで今年の6月から開始したトレーニングだが、年末の現在に至るまで順調に続けることができている。

ぼくについたトレーナーの一人に特にガタイが良い男がいて、物腰が落ち着いているので20台後半くらいの青年に見える彼は、聞けばまだ19歳だという。驚いたぼくはつい「若いね、どうしてトレーナーになったの?」などと聞いてしまった。それは特にその答えが知りたいわけでもなく、本当に何気ない会話の流れでの質問だった。彼は少し言い澱んでからこう言った。「俺はレスリング選手だよ。でも腰やっちゃってさ、試合出られなくなっちゃって。ジムのトレーナーになりたくてスポーツ始めるやつなんて、いやしないよ」

それを聞いてぼくは思わず考え込んでしまった。ぼくだってエンジニアの仕事をしているが、考えてみればエンジニアになりたいと思ったことは一度もなかったし、なれるとも思っていなかった。たまたまそれがぼくが「できること」の中で海外で生きていくのに最も効果的で、ぼくはそれを利用して波に乗ることに運良く成功しただけだ。その裏にはたくさんの選ばれ損ねた「できること」がある。ではぼくは音楽家になりたくてピアノを始めたのだろうか?始めて自分で買ったカメラは写真家になるためのものだっただろうか?

「大人になったら何になりたい?」と問われたことのない子供はいないだろう。思えば子供の頃から、ぼくは常に「何者か」になることを暗に要求されていたような気がする。ピアノが少し弾けるようになればピアニスト、成績が良くなれば学者や医者、写真がうまく撮れればカメラマン・・・好きになったことはすぐに将来への期待を織り込んだ輝かしい職業名に結びつけられていった。ぼくはそれが、好きなことの中からどれか一つを選べと言われているようで嫌だった。好きなだけでは足りない、テレビで見る一流のアーティストやスポーツマンのように、一つの「好きなこと」を徹底的に磨き上げてどんな強者にも負けない硬い鋼の棒を打ち上げ、その棒でもって人生を戦って行かなくてはならない、そう言われているような気がしたのだ。それがいつまでも上手にできないぼくは、気がつくと器用貧乏と呼ばれるようになっていた。何でもできるけど、何もできない、器用貧乏。この言葉はぼくの心をじわじわと蝕み、次第と自分に嫌気が差すようになっていった。

そんな気持ちに少し変化が起きたのは、一人目の娘が生まれたのがきっかけだった。父親になったぼくは、どれも選ばないという選択をすることにした。ぼくは音楽家にはならなかったが、ぼくが家でピアノを弾くことで娘たちは楽しそうにしてくれる。カメラマンではなくても、ちょっと気の利いた家族写真を残すことで妻や両親は喜んでくれる。だから好きなことはそのままで良いのだと、何かのために何かを諦める必要もないのだと、そう思うことにしたのだ。ぼくにとって好きなことは歳をとるごとに増えていくから、一つのことに使える時間はどんどん減っていくのが残念ではあるが、そうすると自然と、たくさんの好きなものに囲まれた生活や、そんな自分の生き方を愛せるようになってきたのだった。

だからぼくは今も相変わらず器用貧乏のままだ。中国語はいつまでも中級レベル、エンジニアとしては平凡、ピアノは人前で弾けるような腕前になれないまま、あんなに勉強した作曲だってどこかで聞いたことのあるものしか作れないし、コーヒーも豆の違いが全然分かるようにならない。時間を割いて読んでいただいている方には申し訳ないが、この文章だって「一流の人」のものとは比ぶべくもない稚拙なものだと思って書いている。どれもそれだけで生きていくことなんてできない。鋼の棒どころか、さながら力を加えたら簡単にちぎれ飛んでしまう細い糸のようだ。でもそんな糸を撚り合わせて、ぼくはなんとか生きている。そうして生きているうちに、それもまた悪くないと思えるようになったのだ。

一本一本は細くて頼りない「できること」でもよい。それらが撚り合わさった糸の束は、時に力強い人たちに鋼の棒を持って叩かれ、押され、曲げられて、形を変えることはあるかもしれないが、しなやかで決して断ち切れることはない。ぼくはそれもまた強さなのだと思う。願わくば娘たちにも、そう思えるような生き方をしてほしい。ぼくが最初の娘を「千絃」と名付けたのは、そんな理由からだった。