スーパーマンの休日

先日他界した祖母の葬儀に出席するため、慌ただしい日程で日本に戻ることになった。祖母は享年95歳、生前は病気一つせず健康そのもので、老衰で子供達に看取られるという大往生だった。祖母は千葉県の船橋という港町で母を育てた。近年再開発が進んだ船橋は小綺麗なマンションが立ち並び、今でこそ都心からのアクセスが悪くないベッドタウンとして注目されているが、祖母の時代は道もろくに舗装されておらず、港町特有の魚臭さのようなものが漂っている田舎だったそうだ。先に亡くなった祖父も若い頃は漁師をしており、生涯船橋から外に出ることはなかった。母の家系は付き合いのある親戚が少なく、家族葬で行われた葬儀の参列者は10人にも満たなかったが、ぼくの妻はそのうちの一人としてぼくに同伴してくれた。若い頃の祖母もまさか自分の最期に台湾人が立ち会うことになるとは、夢にも思わなかっただろう。人の営みというのはドラマチックだ。

供養をしてくれた菩提寺の住職によれば、彼と祖母とは40年以上の付き合いで、見習いとして寺にやってきたばかりの頃からよく祖母に助けられていたのだそうだ。穏やかな性格で話好きだった祖母は寺への散歩を日課としていて、時には何時間も本堂の縁側に腰掛け、住職や彼の家族の悩みを聞いたりしていたのだという。ぼくが祖母がどんな人だったかを誰かから聞くのは、もしかしたらこれが初めてだったかもしれない。家族という関係の外側を想像することは難しい。ぼくにとって祖母は生まれた時から「おばあちゃん」で、「おばあちゃん」でない祖母のことは何も知らず、それは父や母にとってもそうだったのかもしれない。その場の誰もが住職が話す祖母の昔話をゆっくりと噛みしめているようだった。昔話をする人とそれを聞く人たち、すなわち自分がいなくなった後、自分が何者であったかに想いを馳せ語ってくれる存在というのは、まさしく祖母が生きた証であり、祖母の過去そのものだと言える。祖母は気が遠くなるような時間を重ねて過去を積み上げた末、それによって見送られて旅立つことができたのだろう。

ぼくと妻は日本で式を挙げなかったこともあって、ぼくの親族はぼくが台湾人と結婚したことは聞いてはいたものの、この日まで実際に妻と会う機会がなかった。台湾で挙げた式も、両親と妹、あとは数人の友達が来ただけだったから、ぼくが親戚に「康くん」と呼ばれているのを見るのも、妻にとっては初めてのことだったはずだ。小学校を卒業するくらいから会う機会がなくなった従兄弟は「康くんがお酒を飲んでいるのが不思議な気がする」と言った。彼が思い浮かべているのは、酒好きの30代として異国で知り合った妻が知ることのない子供の頃のぼくだ。彼はぼくよりもひと回り年上なこともあり昔のことを良く覚えていて、ぼくはガラスのおはじきやビー玉で遊ぶのが好きだったのだと言った。そうだった。子供の頃、ぼくは透明なものが好きだった。ガラス玉だとかセロハンだとか、透き通っているものを美しいと思い、愛した。

子供のぼくはどんなぼくだっただろうか。幼稚園のことは覚えていない。小学生の頃は成績が良くピアノも弾ける、絵に描いたような優等生だった。だが全国からそういう子供が集まる中学・高校に入った後は、あれもこれもと好きなことが多いぼくは、相対的に何をしても中途半端になってしまい、次第に居場所を見つけられなくなっていった。他の話にも書いた、何でもできるけど何もできない、いわゆる器用貧乏のはじまりだ。それでも好きなことを続けていると、ゆっくりではあっても少しずつ上達していくもので、ぼくが台湾に来た頃には、どうにかそれらが一定の水準にまで達していたのだろう。台湾でのぼくは、いつしか万能の超人と呼ばれるようになっていた。何もできないぼくを知らない妻や彼女の家族にとって、ぼくはある日突然日本からやってきた「スーパーマン」なのだという。だがこのヒーローもまた、使い古された陳腐なプロットをなぞるような悲しみの産物だということを、彼女は知らない。ぼくを飾る煌びやかな言葉と言葉の隙間からは、いつも掬い上げることのできない何かがこぼれ落ちていた。

考えてみれば、ぼくの妻の親戚の多くは近所に住んでいて、何かと顔を合わせる機会が多い。また妻自身も台北で育ったので、望む望まないに関わらず、生活の中でぼくはよく妻の過去に触れることになる。毎日夕方、娘を幼稚園に迎えに行く途中で妻の卒業した小学校の前を通るし、街中でばったりと妻の中学の同級生に遭遇したりすることもある。家の裏には妻が中学生の頃アルバイトをしていたという店があるし、その店主は妻を見て「大きくなったねえ、もうお母さんなんだねえ」と感慨に浸る。その土地に自分の過去があるというのは、つまりそういうことだろう。

告別式が済んだ次の日、ぼくはふと思い出したように、昔よく訪れた、とあるレストランを予約することにした。雰囲気が好きで、特別な日に特別な人たちとの時間を過ごした場所だ。結婚してからよく料理をするようになったぼくは、時々その店のメニューを思い出し、こんな感じだったかな、と想像しながら作ることがあった。食器やグラスの選び方も影響を受けているかもしれない。もちろん妻はそういうことを知らない。それからぼくたちは、学生時代から背伸びして通った地元のバーに向かった。今思えば20歳やそこらの小僧が座ってサマになるようなカウンターではないのだが、カッコよくないぼくが、カッコよくなりたくて何を考えたのか、知ってもらいたいと思ったのだった。

ぼくがかつて何を見て、何を感じて、何を愛したのか。それはぼくの過去そのもので、ぼくの一部でもある。台湾でどんなに探しても見つからない「スーパーマン」の忘れ物を、妻と共に少し足早に探す一日、たまにはそんな日があってもいい。ヒーローだって休日が必要なのだ。