『ふるさと』という歌がある。おそらく日本人であれば誰でも知っているであろう、「兎追いしかの山」で始まるあの曲だ。歌詞を見れば分かるように、田舎で育ち、郷愁に後ろ髪を引かれながらも都会で一生懸命に生きる誰かの思いを歌ったものだろう。彼の故郷がどんなものであるかは東京育ちのぼくにもなんとなく想像ができる。それはぼくが子供の頃から今に至るまで、日本を体現する原風景として様々な形で伝播してぼくに働き掛けてきたからだ。山を背景とした一面の田園地帯、透き通った水が流れる小川、それを引いた用水路沿いの水車、瓦屋根の家屋・・・そのどれもがぼくには馴染みがないものだが、それが世間でいう「心に沁みいる日本の風景」だということをぼくは知っていて、だから『ふるさと』を聞いたときにも彼の立場になって、その心象に一定の理解を示すことができるのである。
有名な童謡で言えば、『赤とんぼ』も「山の畑の桑の実を小籠に摘」んでいるし、『夕焼け小焼け』にも「山のお寺の鐘が鳴る」という表現があるように、郷愁を喚起させる日本の歌曲の世界は「自然に恵まれた田舎出身の若者が都会に身を移し、故郷のことを回想する」というプロットに基づいて構成されていることが多い。こういった曲が生まれた時代の背景を考えればそれも当然のことなのかもしれないが、現在の日本でも東京への一極集中傾向が止まらず、依然として地方出身の人々が東京の人口の半分近くを占めていることを考えると、『ふるさと』『赤とんぼ』が提示するようなノスタルジーはまだ現代的な感性として有効なのだろう。しかしそれは、少なくともぼくのものではない。東京はいつも誰かの憧れであり、目指すべき場所であり、ゴールだった。そんな東京で生まれ、東京で育ち、やがて東京を離れたぼくの故郷は、一体誰が歌って聴かせてくれるのだろうか。
ぼくが育ったのは東京の亀戸という下町だった。今でこそインドア派だが、小さい頃はそこそこ外に遊びに行くのが好きだったと思う。毎日小学校の授業が終わると一度家に帰ってランドセルを置き、小遣いを握って遊びに繰り出すのだが、同級生の多くが学校のすぐ裏にあった公営団地に住んでいたため、自然と遊び場所がその団地の敷地内になることが多かった。ぼくはそこから少し離れたマンションに住んでいたので、幼心に少し同級生との間に距離を感じていたのを覚えている。団地の敷地は相当に広く、敷地内に子供が遊ぶような公園がいくつもあっただけでなく、スーパーや病院、クリーニング屋やパン屋におもちゃ屋などもあり、それだけで一つの生活圏として成立していた。子供の社会ではそのおもちゃ屋が待ち合わせ場所として機能していて、ぼくはよく店先に並べられた古いアーケード筐体で誰かがプレイ中の『ストリートファイター』や『ファイナルファイト』を眺めて時間を潰しながら、仲の良い友達がやってくるのを待っていた。おもちゃ屋の横のヤマザキの看板を掲げたパン屋は、パン屋というより子供需要に特化しすぎて半ば駄菓子屋化していた。10円20円の駄菓子の他に小さな一口サイズのカップ麺を60円くらいで売っていて、それを食べるのが集まった子供たちにとっての「たまの贅沢」だった。
ただ、子供同士の社交場と化した団地で、友達が集まってきた後に何をして遊んでいたのかはあまり覚えていない。サッカーや鬼ごっこなどが多かったような気がするが、確かではない。とにかく敷地内を走り回るのが楽しかった。それよりもはっきりと覚えているのは、四方を建物に囲まれて、昼間でも薄暗かったその雰囲気だ。暗いと言っても敷地内の道が住民以外にも近道として使われていたこともあって人通りは多く、学校側も放課後になると多くの子供がそこで遊んでいることを把握していたので職員が定期的に見回りをするなどしており、何より賑やかな(昨今だと「うるさい」と苦情が来るのだろうが)子供の声が絶えず、不気味さのようなものは感じられなかった。光の届かない場所ではあったが、そこには活気があり、確かに人の生活があった。『ふるさと』の彼の故郷とぼくのそれとの間には、どこまでも広がる青空と眩しさの代わりに四方を建物で四角形にくり抜かれた空と薄暗さが、水車の代わりに年季の入ったゲームコーナーがあり、子供が精一杯の声を張り上げた「ヤッホー」を反響させていたのが木の生い茂る山でなくコンクリートの壁だったという違いはあるかもしれないが、その思い出を蒸留してみれば、そこに残るものは意外とぼくのそれと同じような形をしていて、幾分も変わらないものなのではないだろうか。
ぼくが東京に住んでいた時は、過去がいつも現在と隣り合わせだったように思う。団地にしたって、別に今それがなくなったしまったわけではない。ぼくはずっと実家暮らしだったから、多少の変化はあるにしても、家から少し歩けばその気になればいつでもそこに「帰る」ことはできた。年を経るごとに疎遠になっていく中学高校時代の友達も、はるか距離を隔てたどこかに置いてきたわけではなく、ただ会おうとしないだけで、会おうと思えばいつでも会えた。そう思っているお互いが、もしかすると同じ電車の同じ車両に乗って同じ駅で降りているかもしれないのが、東京生まれの人間の東京生活だ。過去はどこまでも現在の一部で自分から切り離されることはなく、懐かしさのすぐ裏で日常が繰り返されていく。ぼくは東京を離れることで、生まれてから経験したあらゆる出来事を「東京時代」として締めくくり、それを失うことで初めて東京という故郷を持つことになったのだと言える。
台北市内をバイクで走っていると、時々それがタイム・マシンにでもなったかのような気分になる。昔勤めていた会社のオフィス、一緒に起業したものの喧嘩別れになった元上司の家、子供が生まれる前に住んでいた家、妻にプロポーズをした公園・・・、交差点のたびに自分の過去が意識の中に流れ込んでくる。ぼくのように10年も住んでいない人間でも、至る所に過去の足跡を探すことができるこの台北もまた東京に似て過去が近い街であり、東京よりも狭いこの街では、現在と過去がより複雑に絡み合っているに違いない。
故郷は、喪失によって産み出される童話のようなものだ。東京人のぼくがこの街で仄暗い路地裏に見出すある種のノスタルジーは、ともすると台北を離れた台北人が同じように喪失した過去の残滓なのかもしれない。台北人、東京人。都会生まれの人間たちに向けて語られるべき童話は、雑多で活力に溢れるマーケットの熱気の裏、あるいは高層ビルに灯る明かりの星空の谷間で、ひび割れたコンクリートの揺り籠に揺られながら、昔も今も、その語り手を待って静かに眠っている。
